杉本会計事務所

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2021.10.01
Contributor:ポン太

新1万円札の顔

現在放映されている大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は、新1万円札の顔となる渋沢栄一です。

明治政府の大蔵官僚として新しい日本の財政制度を整え、退官後は実業家に転じた明治時代の偉人である渋沢栄一。
およそ500の会社設立と600もの教育福祉事業の設立に携わった日本の資本主義の父と称される渋沢栄一が、事業家の第一歩を踏み出したのは「静岡」でした。

主君だった徳川慶喜に連れ添い、静岡へと居を移した渋沢栄一。
ヨーロッパで学んだことを活かし、紺屋町(静岡市葵区)で商法会所という商社と銀行を合わせたような会社を開きます。

このとき徳川の領地は70万石に減り、家臣を食べさせていくことができなくなった徳川家は、家臣に帰農を奨励しました。
帰農した武士たちはコメづくりではなく、茶づくりに挑戦します。
牧之原台地は農地に不向きで開拓されていない状態でしたが、幸運にもその台地は茶づくりには適していました。
帰農した武士が多かったこともあり、牧之原台地の一体はみるみるうちに茶畑が広がっていきます。そして、茶の栽培地は静岡全域に拡大。
静岡は日本屈指の「茶王国」となりました。

茶王国になった静岡ですが、製茶しなければ出荷はできません。
それらの作業を効率化するためには近代的な工場が不可欠で、莫大な資金が必要でしたが、多くは資本がないため、大きな工場を建設することは難しい状態でした。

渋沢栄一は、商法会所で集めた資金を融資し、製茶工場を設立。同時に流通経路も整備されていきました。
そしてその頃明治政府は、日本からも輸出できる農産品や工業製品を調査し、生糸と茶は諸外国でも人気が高いことが判明し、茶の栽培が奨励され、当時の清水港は日本一の茶輸出港となり、静岡の経済に多大な貢献をしました。

渋沢栄一が静岡に滞在した期間はわずか10ヶ月でしたが、その後の偉業の糧になったのは静岡での商法会所の経験だったのではないでしょうか。

日本を誰よりも愛し、経営の本質は「社会的な責任」にほかならないということを見抜き、幅広い社会事業、福祉、慈善活動にも取り組んだ渋沢栄一。

企業の社会貢献や持続可能な成長が課題になっている現在。百年以上も前に、社会を変革する力をもった人物の思想は、今ふたたび必要とされています。

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